飛鳥時代

  日本史の時代呼称のひとつで、一般には592(推古元)の推古天皇の即位から710(和銅3)の平城京遷都までの100余年をいう。始まりを6世紀中ごろとしたり、美術史などでは大化の改新のはじまった645(大化元)や、天智朝(662671)ころ以降を白鳳(はくほう)時代として区分する考えもある。

  名前の由来は推古天皇が豊浦(とゆら)宮に即位してから元明天皇が藤原宮に即位するまで、河内の難波宮・近江大津宮への短期間の遷都をのぞけば、都がおおむね飛鳥地方(奈良県明日香村地域)とその周辺におかれたことによる。

飛鳥地方と大和三山

写真中央の山が畝傍山(うねびやま。199m)で、その前方が飛鳥地方である。左手前方に小さく天香久山(あまのかぐやま。152m)がみえ、写真にうつっていないが、この2つの山の左側には耳成山(みみなしやま。140m)がある。のちに、この三山にかこまれた地に、持統、文武、元明天皇3代の宮都、藤原京(694710)がおかれることになる。

 飛鳥時代は政治的には氏姓国家・部民制社会( 部民)から律令制による中央集権国家の確立までの過渡期にあたり、中間点にある大化の改新がその流れを決定的にしたといえる。推古朝では推古天皇・聖徳太子と大臣(おおおみ)蘇我馬子の間に最高権力をめぐる対立があり、大王(おおきみ:天皇)家の権威回復などのために遣隋使も派遣された。

 しかし、それ以前からひきついできた国造の勢力削減と屯倉などの設置・整備や官司による部民の直接支配を通じて、中央権力の強化をはかるという方針はかわらなかった。しかし蘇我氏は氏族制度の解体自体には消極的で、むしろ専横にはしった。当時、聖徳太子らが派遣した遣隋使とともに中国へわたった留学生や留学僧が帰国し、中国の先進的な法制・行政の知識をもたらしていたが、さらに中国では隋のあとをうけた唐による高句麗遠征の情報がつたわった。

聖徳太子とつたえられる肖像画

太子は天皇中心の国づくりをめざし、十七条の憲法を制定、また仏教への造詣も深く、四天王寺をたてるなど仏教をあつく保護した。左右に2皇子を配した描き方は、中国の帝王図巻の影響といわれる。冠や衣装も、8世紀半ばの中国のものに似ている。古伝では左が山背大兄王(やましろのおおえのおう)、右は殖栗王(えぐりおう)という。

 大化の改新

  唐のような集権化をいそぐ必要を感じた中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らは、645年乙巳(いつし)の変で蘇我氏から権力を奪取。646年には大化改新の詔(みことのり)を発布し、公地公民、班田収授制、集権的行政制度、新統一税制などをかかげて挙国体制での軍事力増強をめざした。改革の直接の目的は唐・新羅連合軍に勝利することだったが、挙国体制が実現しないまま白村江の戦(663)で敗北する。しかし国内改革はひきつづき推進し、庚午年籍をつくって全人民を把握し、冠位二十六階制によって官僚体制が拡充された。

酒船石遺跡の亀形水槽と小判形石造物 奈良県明日香村の酒船石遺跡で、2000(平成12)にみつかった亀形水槽(手前)と小判形石造物()。それぞれ全長は約2.4mと約1.65m。これらの遺構は、湧水施設(ゆうすいしせつ)や導水施設をもつ精巧な造りで、湧水施設から水をながすと、小判形石造物をとおって亀形水槽にたまるようになっている。

  中央集権国家の確立

  672(天武元)壬申の乱の勝利で強い専制権力をにぎった天武天皇は、さらに天皇を中心とした律令制による中央集権国家体制の確立につとめた。そして大弁官を直属させた独裁体制をつくり、神仏両面にわたる国家祭祀(さいし)制度を規定し、国庁・郡家(ぐうけ)の設置や租税制度・交通制度にいたるまで律令制度を細かく、かつ現実的なものにしあげた。 

それらの措置・法制は唐の永徽律令(えいきりつれい)を参考にして飛鳥浄御原令にまとめられ、律令政治は形をととのえた。その成果が、持統朝(686697)での藤原京への遷都や班田収授の開始などにつながる。律令は天武朝以後の施行状態の評価をふまえて改正・修訂を重ね、701(大宝元)大宝律令として完成された。この過程で、日本は中国の影響つまり小帝国主義の自負心をもつようになり、日本国号・天皇号を称するとともに、華夷(かい)思想を身につけるようにもなった。

外交面では、7世紀中ごろの唐・新羅との戦いで悪化した日唐・日羅関係は、朝鮮半島の独立をめぐってその直後に唐と新羅間で紛争がおきたため、日本は孤立した新羅からの朝貢をうけ、他方では唐に遣唐使をおくることにより唐の冊封体制下に復帰した

飛鳥時代の戸籍

筑前国島郡川辺里(現、福岡県志摩町)の戸籍。郡司の長官である大領の肥君猪手(ひのきみいのて)702(大宝2)に作成したもの。古代国家は、戸籍をつくることによって全人民の身分をしるし、居住地もさだめて自由な移動を禁じた。年齢、性別、家族関係をしるし、これをもとに班田を支給、税を徴収したのである。こうして国家による国郡里制にもとづく領域的支配が可能となった。記述のあるところには国印をおしている。「正倉院文書」より。

  飛鳥文化と白鳳文化

  文化的には、古墳文化から仏教文化への転換期にあたり、天智朝を境に前期を飛鳥文化、後期を白鳳文化とよぶ。それまで巨大な古墳をきずくことで権威付けをしていた豪族たちは、新たに流入してきた国際的な権威である仏教をうけいれた。彼らは瓦葺(かわらぶ)きの金堂や高い寺塔をつくることを権威の象徴とするようになる。

広隆寺の弥勒菩薩半跏像

京都市太秦(うずまさ)の広隆寺にある飛鳥時代の仏像。マツ材をもちいた仏像で、当初の本尊ともいわれる。広隆寺には2体の弥勒菩薩半跏像(はんかぞう)があり、ともに飛鳥時代の貴重な仏像として国宝指定されている。頬(ほお)にそっと指をあて、うつむきかげんに思索する姿である。本来は金箔をはっており、もっと華麗な姿をしていた。

  飛鳥時代を通じて中国・朝鮮からの直輸入的な文化ではあったが、飛鳥文化では六朝文化の影響をうけ、白鳳文化では遣唐使がひんぱんに派遣されたこともあって、初唐文化がそのまま流入している。亡命渡来人の活躍などもあり、天智朝では万葉歌とならんで漢詩文がつくられた。学問的には儒教・道教の思想も宮廷にひろがり、天武朝では天文・暦法などが盛んに研究されるようになった。

飛鳥寺の釈迦如来座像

飛鳥大仏の通称がある大金銅仏である。「日本書紀」には、606(推古14)に鞍作止利(くらつくりのとり)によって完成され、元興寺(飛鳥寺)金堂に安置されたとある。左頬(ひだりほお)と右手指3本をのぞいては中世の補修だといわれているが、飛鳥文化期の現存最古の仏像として貴重である。飛鳥寺は、現在は安居院(あんご)(江戸時代の建立)とも称して、この飛鳥大仏を安置している。

  飛鳥時代・592 - 710

592年の推古天皇の即位から、710年に平城京に都をうつすまで、おおむね大王(おおきみ。7世紀後半以降は天皇)の宮都が飛鳥の地にあった約117年をさす。なお645年の大化の改新や天智天皇のころ以降を白鳳時代(はくほうじだい)とよぶ文化史の呼び方もある。政治的には氏姓制度(しせいせいど)と部民(べみん)支配から律令制へとうつりかわる時期にあたり、大王(天皇)中心の国づくりがおこなわれた。文化的には中国の隋、唐王朝への遣隋使、遣唐使派遣によって大陸文化を導入し、国際的な地位の確立もはかっている。またこの時代は古墳文化から仏教文化への転換期でもあった。