道央部のアイヌ文化
(千歳市埋蔵文化財センター 田村 俊之)
畑のあったコタン? オサツ2遺跡
千歳川の支流の一つ、長都川下流域の右岸に広がる遺跡である。
旧石器時代から縄文、続縄文、擦文、中近世までの間断ない人の営みが残されていた。
図3は、この遺跡から発見されたアイヌ語で」「チセ」と呼ばれる家の跡である。
壁となる位置に掘建柱を並べた平地式の住居である。
屋内に屋根を支える柱は無い。柱の太さは、10~15cm。壁の一方に「セム」と呼ばれる玄関と物置を兼ねた張り出し部分が付くこともある。
家の規模は、セムを除いて短辺が4〜6cm、長辺が5〜10m、平面形は長方形である。
床の中央に必ず炉を設ける。
調査では、まず真っ白な灰が、次に灰の下に赤い焼土が現れ、炉が確認される。
又、屋外に灰だけがまとめて置かれている場合がある。
この灰や炉、その周辺の土の調査によって、小さいが大変重要なものが発見された。
それは、炉の熱によって炭化した植物の種子である。
種子は、形などによって種が特定でき、野生植物か栽培植物かを特定できる。
遺跡からはサツナシ、ヤマグワ、ヒシ、キハダ、ヤマブドウ、栽培植物として、アワ、ヒエ、キビ、イネ、マメ(アズキ)、アサが見つかっている。
これらの種子の発見は、アイヌ文化のコメや雑穀などの利用について具体的な資料となるばかりでなく、農耕の可能性を想起させる資料であった。
当時のアイヌの人々はどんな方法で、コメやアワなどを入手したのだろうか。
農耕の種類や規模も含めて考えると、上図は19世紀初頭のヒエの収穫を描いたものである。
今後、種子のデーターが蓄積するに従って、穀物の構成や産地情報などが豊かになり、アイに文化の食物食と農耕、交易の実像が次第に明らかになって行くだろう。
このような穀物は、どのように食べられたのかのであろうか。
穀物は貯蔵がきく。特別なときに食べ、酒やシト(団子)をつくってアイヌ語で「カムイノミ」という神事に用いたのであろうか。
アイヌの分析から、当時、千歳のアイヌの人々の主食が海産魚類であったことが、判明している。
内陸で海産魚類とは、秋に遡上してくる「サケ」である。米や雑穀類は、神事などに用いる大切な食料であったかもしれない。
種子が何故炉跡や灰から発見されるのであろうか。
炉は煮炊きするところ、調理時に材料がこぼれるのは当然と思われるかもしれない。勿論、そのような事があったことは否定出来ないが、次のような理由も考えられる。
アイヌの人々にとって炉は、「アペフチカムイ」という名の火の神様がいるところである。
この神様は、一番人間に近い所にいて、色々な神様に伝言もしてくれる大切な神様である。
生活の節目には、先ず炉の火の中に食物を供えて「アプフチカムイ」に報告し感謝する。
灰や炉などから見つかる炭化した種子は、そんな精神文化にまつわるものかもしれない。
種子と同様に、焼けた魚骨片や鹿などの獣骨片も、沢山見つかっている。
(千歳市埋蔵文化財センター 田村 俊之)