飛鳥時代 壁画古墳

壁画古墳

装飾古墳 そうしょくこふん 

石室の壁面や石棺に、彩色、彫刻、刻印がほどこされた古墳。壁面などに彩色画をえがく古墳はとくに彩色壁画古墳ともいわれる。彩色壁画古墳は、5〜7世紀代の横穴式石室の入り口や内壁、石棺の内外面および横穴の内外壁などにみられ、さまざまな事物、文様、線、図形を彩色する。福岡県南部から熊本県にもっとも多く、全国の約300例のうち半数が集中する。本州では島根県から鳥取県西部、茨城県海岸地域、福島県の海岸地域の横穴などによくみられ、大型古墳の集中する畿内には少ない。

装飾古墳の初期の図柄は、おもに直線と弧線をくみあわせた直弧(ちょっこ)文や円文・三角文・同心円などの幾何学的文様で、5世紀には鏡、玉、刀、短甲、盾など武具をあらわす図が多い。6世紀になると全体にストーリー性のある図柄となり、舟、太陽、月、舟人、武人などがあらわれる。関東以北に存在することについて、北九州地方からの伝播(でんぱ)説と独自発生説がだされているが、線刻の使い方や図案などから伝播説が有力。

奈良県の高松塚古墳の四神図、人物群像、星宿図などは、こうした装飾古墳の系統ではない、高句麗・唐文化の影響をうけた図柄とみられている。1998年には高松塚古墳の南約1kmにあるキトラ古墳で超高感度カメラ(CCD)による調査がおこなわれ、四神図や星宿図が確認された。高松塚古墳とほぼ同じころに築造された古墳であるが、緻密で精確な星宿図がとくに注目された。

高松塚古墳の壁画

奈良県明日香村にある高松塚古墳の石室西壁にあった4人の女子像。同じ西壁の入り口側にも4人の男子像が描かれていた。東西の壁に男女4人ずつ合計16人の人物像があった。服装や、もっているさしば()と如意(中央)などの持ち物類は、当時の高句麗や唐の古墳壁画と類似するところも多い。7世紀末〜8世紀初頭。

チブサン古墳の装飾

熊本県山鹿市のチブサン古墳は、全長44mの前方後円墳である。横穴式石室内に石板をたてた家形の石棺状施設があり、内側に同心円文や連続菱形(ひしがた)文などが描かれている。これは現況を忠実に再現したレプリカである。

虎塚古墳の装飾

茨城県ひたちなか市の虎塚古墳(とらづかこふん)は、全長56.5mの前方後円墳である。石室の白色粘土をぬった壁には、赤色顔料で連続三角文、環状文、円文とともに武器や武具と思われる図像が描かれている。九州の装飾古墳との類似点が指摘されている。7世紀前半。

キトラ古墳の朱雀像

2001(平成13)に南壁で発見された朱雀(すざく)の像。朱雀は古代中国の四神のひとつで、南方を鎮護し、邪気をはらうといわれる霊鳥である。四神信仰は朝鮮半島や日本にも伝播(でんぱ)し、高句麗古墳(こうくりこふん)や日本の高松塚古墳などの石室にも四神像が描かれている。奈良、薬師寺金堂(こんどう)の薬師如来座像の台座には四神が浮彫されている。

 石室 せきしつ 

古墳の内部にあって、棺をおさめるために石でかこった施設。竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)と横穴式石室がある。

竪穴式石室は墳丘の頂上部から大きな穴をほり、周囲の壁を割石や板石でつくるもので、前期古墳に多い。ふつうは石室内に粘土の床をしき、その上に木棺や割竹形石棺、舟形石棺をすえ、周囲を粘・礫(れき)などの槨(かく)でおおう。

横穴式石室は朝鮮半島からつたわったといわれ、5世紀の北九州にはじまり、6世紀に全国的にひろがった。墳丘のすそに横穴をほり、遺体をおさめる玄室と、ここと外部をむすぶ通路の羨道(えんどう)からなる。古墳が大型化すると横穴式石室も長大化し、奈良県橿原市の欽明天皇がほうむられているという説が有力な見瀬丸山古墳のように入り口からの長さが28m以上というものもある。この見瀬丸山古墳の羨道部は長さ20.1mあり、玄室は高さ約3.9m以上、幅最大部4.1m、長さ8.3mである。2番目は奈良県明日香村の石舞台古墳で、羨道をふくめた石室全長は約19.1m、玄室は高さ4.7m、幅3.4m、長さ7.5mである。両古墳の天井石の最大のものはそれぞれ100t、77tと推定されている。

一般に竪穴式石室は1室1埋葬で封閉するが、横穴式石室は入り口が開閉できるため、何代にもわたって追葬されるものも多い。

藤ノ木古墳の石室

石室内には拳(こぶし)ほどの石がしかれ、赤色顔料をぬった家形石棺がおかれていた。石棺内は未盗掘で2体の人骨のほか、多数の副葬品が埋葬時のままみつかった。また奥壁と石棺の間(写真奥)からは馬具や武具なども発見された。とくに金銅製の馬具は東アジアでもまれにみる優品で、日本ではほかに例をみない。奈良県生駒郡斑鳩町。

見瀬丸山古墳 みせまるやまこふん 

奈良県橿原市の大軽町、五条野町にまたがる6世紀後半の前方後円墳。古代の都市計画道路である下ツ道(しもつみち)の南端に位置する。全長(墳丘の長さ)は約318mで、全国第6位の規模をもち、奈良県では最大。また、後期古墳の中では前方後円墳としては最大である。所在地などから、「日本書紀」にしるされる欽明天皇と妃の堅塩媛(きたしひめ)を合葬した陵墓(→ 天皇陵)である可能性が高い。

丘陵斜面につくられたこの古墳は、4段築成の墳丘をもつが、北西をむく前方部は一時開墾されて畑地化し、国道169号線で先端部分が一部けずりとられている。周濠と外堤および周庭帯をもつ。前方部復元幅が約230m、高さ約15m、後円部の直径約160m、高さ約21m。

明治時代まで横穴式石室が開口していたため、以前から後円部に横穴式石室があることは知られていた。1991年(平成3)、開口部から入った人の写真公開で内部の様子が明らかになった(宮内庁によって現在はふさがれている)。それによると奈良県明日香村の石舞台古墳をうわまわる全長約28.4mもの日本最大の横穴式石室であり、天井石も100tをこえると推定される巨大さであった。

約8.3mの長さの玄室内に2個の刳抜式(くりぬきしき)家形石棺があり、1つは奥壁にそい、もう1つは東壁にそっておかれ、蓋(ふた)から下は堆積土(たいせきど)にうもれていた。石棺の型式は奥壁側が新しく7世紀初頭、手前側は6世紀後半のものとみられる。型式の新旧からみたときの棺位置の入れ替わり状況については、推古天皇が見瀬丸山古墳を改装する際、実母である堅塩媛の石棺を奥に、欽明天皇の石棺を手前に配置させたという説もある。

かつてこの古墳は、天武・持統天皇合葬陵とされていたが、明治時代に同陵が明日香村の野口王墓山古墳とされたため、陵墓参考地として後円部上部だけが宮内庁管理となっていた。最近では葬送をおこなった軽(かる)の地にあるということだけでなく、石室の形態、石棺の写真の分析などでも欽明天皇と堅塩媛の死亡時期に矛盾しないことなど、ここが文献にいう本来の檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ:欽明天皇陵)であるとする説が有力となっている。

なお現在、宮内庁では明日香村にある梅山塚を欽明天皇陵としているが、これは双円墳であったらしいものを明治時代に前方後円墳につくりかえたものである。見瀬丸山古墳は1969年(昭和44)に国の史跡に指定されている。

  石舞台古墳 いしぶたいこふん 

奈良県高市郡明日香村島庄にある古墳。現在は盛り土をうしなっているため、中央部に南西方向に開口する巨大な横穴式石室(→ 石室)が露出している。1933年(昭和8)から数回にわたって発掘調査がおこなわれ、一辺約85mの外堤をもち、墳丘が一辺約54mある、上円下方形の古墳だったと推定された。石室全長は約20.5mで、同県の見瀬丸山古墳などについで全国3位の長さである。石室につかわれた花崗岩などの総重量は約2300tと推定され、冬野川上流で採掘されたらしい。

国営公園整備にともなう発掘調査で、石舞台古墳が従来この地にあった古墳を破壊して7世紀前半に築造されたことがわかった。被葬者として、626年(推古34)に死んだ蘇我馬子が有力視されているが明らかではない。馬子であれば、蘇我氏滅亡後に盛り土が新政権によって排除されたものと考えられる。国の特別史跡

石舞台古墳

奈良県明日香村にある、7世紀前半に築造された古墳。盛り土をうしなっているため、巨石をくんだ横穴式石室が露出している。蘇我馬子の墓といわれるが、確証はない。