高松塚古墳 キトラ古墳

高松塚古墳とキトラ古墳

高松塚古墳 たかまつづかこふん 

奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村にある直径約20m、高さ約5mの円墳で装飾古墳。1972(昭和47)村史編纂(へんさん)事業として橿原考古学研究所が発掘調査を実施。墳丘下中央に凝灰岩製の石棺式石室がきずかれ、終末期古墳特有の構造から7世紀末〜8世紀初頭のものと推定される。石室内部の壁面すべてに漆喰がぬられ、その上に壁画がえがかれていた。

のこっていた壁画は東壁の青竜、西壁の白虎(びゃっこ)、北壁の玄武の四神のうちの3神のほか、日輪、月輪、男性4人と女性4人のそれぞれの群像、朱線と金箔(きんぱく)でえがかれた天井の星宿(星座)がある。南壁は後世の盗掘によってはがれていたが、おそらく残りの四神、朱雀(すざく)がえがかれていたとされる。石室からは棺を装飾する金具や白銅製海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)、銀製大刀外装具(たちがいそうぐ)、ガラス玉、琥珀玉(こはくだま)などが出土している。人骨も残存し、鑑定によって推定身長約163cmの熟年男性と判明した。この人骨や築造時期、副葬品などから古墳の被葬者がだれであるか論議をよんだが、現在も確定していない。

高松塚古墳の壁画 奈良県明日香村にある高松塚古墳の石室西壁にあった4人の女子像。同じ西壁の入り口側にも4人の男子像が描かれていた。東西の壁に男女4人ずつ合計16人の人物像があった。服装や、もっているさしば()と如意(中央)などの持ち物類は、当時の高句麗や唐の古墳壁画と類似するところも多い。7世紀末〜8世紀初頭。国(文部科学省保管)

壁画図案により中国・朝鮮半島の装飾古墳と密接な関係があることが証明された点で、高松塚古墳の発見は戦後日本の考古学上、最大級のものとなった。また絵画史や美術史、服飾史など多方面にも大きな影響をあたえた。1973年に国の特別史跡に指定され、翌74年には壁画が国宝に指定された。現在、隣接してつくられた高松塚壁画館に壁画の模写や写真パネル、白銅製海獣葡萄鏡などの副葬品のレプリカ、石室内部の原寸模型などが展示されている。

石室を解体して壁画を修復

古墳は科学的な保存処置のもとに密閉され、1980年からは1年に1回の定期点検がおこなわれていた。しかし、近年になって石室内に大量にカビが発生、壁画の劣化がかなり進行していることがわかった。2005(平成17)6月に文化庁は、壁画を修復するため、墳丘土の一部をとりのぞいて石室を解体、壁画を石材ごととりだすことを決定した。解体作業は072月ごろから着手する予定で、修復・保存処理には10年以上かかるとされる。なお、処理後に壁画と石室は元にもどされ、墳丘も復元することになっている。こうした決定には異論も多く、また壁画の劣化をかなりはやい段階に確認しながら具体的な対策をとってこなかった文化庁への批判の声も強い。

キトラ古墳 キトラこふん 

奈良県明日香村阿部山にある直径約14m、高さ約3.3mの円墳で、7世紀末〜8世紀初めの装飾古墳。「キトラ」の呼称については、この付近がかつて「北浦」「北裏」とよばれていたためという説、江戸時代に盗掘に入った盗人が古墳の中でカメ()とトラ()をみたから亀虎(きとら)とよばれるようになったという説などがある。2000(平成12)に国の特別史跡に指定された。

1983(昭和58)にファイバー・スコープによって内部調査がおこなわれ、小型の石室内壁面に玄武(げんぶ)像、すなわちカメにヘビがまきついた姿をした北方鎮護の神が描かれていることが判明した。しかし、直後の機械故障で調査は中止となった。その後、95(平成7)の阪神・淡路大震災で壁面の損傷が心配されたため、98年に明日香村、奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)などが超高感度カメラ(CCD)を使用して、内部撮影をおこなった。

その結果、北壁に玄武像、西壁に白虎(びゃっこ)像、東壁に青竜像、さらに天井には星宿図(天文図)が描かれていることが確認された。白虎像など四神の極彩色絵画や星宿図は、1972(昭和47)に発見された、キトラ古墳の北約1kmにある高松塚古墳とならぶ大発見だった。また2001(平成13)の撮影では、南壁から南方鎮護の朱雀(すざく)像が発見され、つづいて青竜像のある東壁下隅には東アジア最古といわれる十二支( 十干十二支)の獣頭人身像が描かれているのが確認された。この獣頭人身像は武人のような衣装を着たトラ()の顔と考えられ、朱線がほかにもみられることから、東南西北の4壁にはそれぞれ3体ずつ計12体の十二支像が描かれていた可能性がある。十二支は方位や時刻をあらわす動物たちであり、4壁がそれぞれ春夏秋冬を意味し、天井にある星宿図の星の運行とも関連している。

星宿図は高松塚古墳のものより精密に描かれており、中央に北極五星を配し、太陽の運行をあらわす黄道や68の星座、約350の星が描かれている。これらの宇宙観は古代中国の陰陽五行説の影響をうけたもので、日本では天体の運行や方位から吉凶を占うことが7世紀後半に盛んになったといわれる。→ 陰陽道

20041月から文化庁による本格調査がはじまり、奥行き約2.6m、幅約1m、高さ約1.3mの石室内に流入した土砂の中から頭蓋骨(ずがいこつ)の一部や歯、棺(ひつぎ)の金具などがみつかった。歯の磨耗度から、石室にほうむられていた人物の推定年齢は、熟年〜老年(40代〜60)であることがわかった。

また、国宝級ともいわれる壁画の痛みがはげしいことが判明し、壁画の下地である漆喰ごとはぎとって修復保存処理をすることになった。8月には、とくに痛みのはげしい東壁の青竜や十二支のイヌ()のはぎとりに成功。その後、西壁の白虎をはぎとったあと、修復の成果をみたうえで、星宿図もふくめ、すべての壁画をはぎとって処置をほどこすことになった。処置後の壁画は、石室の外の施設に保管する方向で検討されている。

藤原京の「聖なるライン」とキトラ古墳

藤原京は694710年の間、大和盆地の南部、大和三山にかこまれた地にいとなまれた。藤原京の中心をとおる南北の道路が朱雀大路(すざくおおじ)で、その延長線上に、この時代の古墳が集中する。藤原京を計画した天武天皇の天武・持統天皇陵をはじめ、高松塚古墳、文武天皇の真陵説のある中尾山古墳といった古墳である。この線を藤原京研究の権威だった岸俊男は「聖なるライン」とよんだ。キトラ古墳の被葬者も藤原京と関連の深い人物と考えられ、天武天皇の皇子説など天武天皇系の皇子や王族とする説が出されている。

キトラ古墳の朱雀像

2001(平成13)に南壁で発見された朱雀(すざく)の像。朱雀は古代中国の四神のひとつで、南方を鎮護し、邪気をはらうといわれる霊鳥である。四神信仰は朝鮮半島や日本にも伝播(でんぱ)し、高句麗古墳(こうくりこふん)や日本の高松塚古墳などの石室にも四神像が描かれている。奈良、薬師寺金堂(こんどう)の薬師如来座像の台座には四神が浮彫されている。

陰陽道 おんみょうどう 

天体の運行や方位から国家や個人の吉凶禍福をうらなう技術、またはその信仰的思想や理論。「おんようどう」「いんようどう」ともよむ。その思想と理論の源流は古代中国周王朝に成立した易で、日月と木火土金水(もくかどごんすい)の陰陽五行(いんようごぎょう)説を基礎に十干十二支説がむすびつき、天文や暦の知識もくわわって、未来予知のよりどころとなった。

わが国では6世紀初頭に中国から朝鮮をへて伝来し、聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法の制定に陰陽道をとりいれている。天武朝(672686)には吉凶をうらなう専門職が中務(なかつかさ)省の陰陽寮として創設された。職務は卜筮(ぼくぜい)・天文・暦・時刻のことをつかさどり、陰陽寮には長官の頭(かみ)の下に陰陽師や陰陽博士、暦博士・天文博士、陰陽生・暦生・天文生などがおかれた。882(元慶6)には陸奥(むつ)鎮守府に陰陽師がおかれるなど、平安時代以降、地方にも配置されている。

陰陽道は福をまねき、災いをさけるために、いつ・いかなることをすべきかを説き、また時と方位から吉凶をうらなった。さらに国家安泰のための改元を進言した。そのため、社会や個人の行動を細かく律することとなった。改元を例にとると、平安前期までは中国と同じように、吉兆現象で改元する、陰陽思想による祥瑞(しょうずい)改元での元号名が多かった。しかし、国風文化の隆盛とともに陰陽道も日本化し、兵乱・天変地異などの凶兆現象で改元する災異改元がおこなわれるようになった。藤原氏は権力安定のために陰陽道による禁忌をよく利用した。

10世紀後半〜11世紀後半の摂関政治の時代にこうした宮廷陰陽道が確立してくる中で、賀茂忠行・保憲父子という陰陽道の名人がでて、保憲の子の光栄(みつよし)と弟子の安倍晴明は傑出した後継者として知られた。以後、賀茂・安倍両家による支配がつづき、陰陽頭も両家からでた。

武家政権の成立後は、幕府の職制の中にも大きな位置を占める。陰陽思想は中世を通じ武家にも浸透し、合戦での方角・日時の決定にも利用された。他方、公家では朝廷の神祗的行事の陰陽道化がいっそうすすみ、物忌(ものいみ)、方違(かたたがえ)は有職故実化された禁忌としてひろくおこなわれた。

陰陽道の名人といわれた安倍晴明

安倍晴明は、呪術的な占験力にすぐれ、天文の淵源をきわめたともいう。祭文(さいもん)を読む晴明の前にいる異様な5匹は、物怪(もののけ)たちで厄病神をあらわす。晴明側の2人は、陰陽師が祈祷するときの守護神的な役割をもつ式神と考えられる。鎌倉時代の「不動利益縁起(ふどうりやくえんぎ)」より。