奈良・高松塚古墳
<高松塚解体> 特別考古学シンポ特別考古学シンポ
「世紀の解体 高松塚古墳――極彩色の飛鳥美人はよみがえるか」
パネリスト基調講演
独自技術で円形墳丘・・・河上邦彦・神戸山手大教授
解体に向けた高松塚古墳の発掘成果について話す河上教授
高松塚古墳の石室解体に向け、墳丘の発掘調査が進められる中、様々な成果が上がってきた。35年前の壁画発見時には中途半端な調査しかできなかった。発掘は結果的に遺構の破壊を伴うため、国民の遺産として後世に残そうと判断したからだ。考古学的にほとんど手つかずだったと言える。
今回の発掘の一番大きな成果は、古墳の造り方がはっきりしてきたことだ。高松塚の墳丘は、土を固くたたきしめた「版築(はんちく)」で造られている。もともと城壁や建物の基壇を造るのに使う中国の技術。飛鳥時代に日本に入り、寺院の基壇などに使われ、それが古墳に応用されたと言われてきた。
ところが方形の寺院の基壇なら、杭(くい)を立てて板で囲った中の土をたたきしめればよいが、円墳は丸みを帯びている。この方法だと、階段状になってしまい、土を積んでから角を削ったのかと疑問に思っていた。
それが発掘によって、ムシロを敷いて土を積み、直径4センチ程度の棒で突き固めていることがわかった。それを繰り返すことで、丸い古墳も造ることができる。中国の版築とは異なり、寺院などの版築を応用し編み出した日本独自の技術だ。
高松塚の石室には凝灰岩が使われている。火山灰が固まったもので軟らかい。それまで横穴式石室に使われていた花崗(かこう)岩と異なり、木材と同じように、のこぎりで切ったり、のみで削ったりできる。非常に手軽な材料だ。だが、水を通す特徴があり、水にぬれたり、乾燥したりを繰り返せば、粘性をなくし、火山灰に戻ってしまう。石材として長期間、維持するのは大変だ。発掘で天井石にひびが入っていることがわかったが、当たり前のことだ。
こうした石材の状態などを考えれば、このまま何の努力もなしに放置することはできない。この壁画を保存していくために、石室解体はやむを得ない。
河上 邦彦(かわかみ くにひこ)氏
1945年大阪市生まれ。 奈良県立橿原考古学研究所副所長などを経て現職。
解体に疑問を投げかけ、再考を迫る和田名誉教授
高松塚古墳は江戸時代、文武天皇陵にあてられていた。本居宣長も、「菅笠日記」に書き残している。だが、真の文武天皇陵は、高松塚古墳に近い中尾山古墳と考えられ、天武・持統天皇の合葬陵も近い。天武と持統の孫が文武。高松塚が近接しているのは、被葬者が天武の皇子、皇親クラスだからと考えられる。高松塚には、そうした歴史的に重要な人物が葬られていると想定できる。その古墳に対し「劣化が進んだから石室解体は当然」という考えには反対だ。もう一度、立ち止まって考えてみたい。
高松塚が解体に至ったのは、文化庁が情報公開してこなかったことに大きな原因がある。なぜ劣化が起きたのかという原因追究は、いまだなおざりにされている。解体する前に、いろいろな方法を考えねば。猶予をおいて、もっと広く英知を集めて検討すべきだ。
高松塚の特別史跡の墳丘と国宝の壁画とは、切り離して考えられるものではない。発見されたその場所で保存されてこそ、意味がある。解体し移築されれば、それは元の古墳ではない。歴史的な環境が変化し、古墳が本来持つ意味がなくなってしまう。文化庁は解体後、壁画を修理し石室を元に戻すというが、いつ、どうやって元に戻すのか、はっきりさせていない。本当に元に戻せるのか疑問だ。
さらに言えば、高松塚が移築できるなら、すべての古墳、遺跡が移築可能になってしまう。「高松塚でもやっているではないか」と言われれば、文化庁は返す言葉がないはずだ。石室を解体するとして、本当に石材を持ち上げて大丈夫なのか、発掘で見つかったひびや石材ごとの寸法の違いを考えれば不安になる。
日本の文化財保存は今、岐路に立たされている。石室解体は今後の文化財保存に大きな影響を与える。このまま進めてよいのか、もっと慎重に考えてほしい。
和田 萃(わだ あつむ)氏
44年中国・旧満州生ま れ。京都教育大教授などを経て現職。
(2007年04月02日 読売新聞)