北海道の文化―1
縄文時代以降は、北海道の人類が受けた影響は、北方よりも、本州からの方が強かった。津軽海峡が、文化面での境界線になったことはなかったのである
北海道は東西二つの陸塊が衝突してできたと考えられ、今から約2億年前、北海道あたりはまだ海だったようです。1.4億年前に北米プレートとユーラシアプレートの接近が始まり、それぞれのプレートの先端にはオホーツク古陸と西方古陸が出現し、狭まれた海には陸からは運ばれた土砂で埋められ、森林が発達した。
この森林が炭化したものが石狩炭田の石炭である。古陸は4千万年前に衝突を始め、北海道の背骨をなす日高変成帯(北海道では、土台となる付加体のほかに付加された海台と厚い堆積物からなる空知・蝦夷帯(そらち・えぞたい)が分布し、日高山脈には、日高変成帯が露出している。北海道の地質構造の形成に関しては、古第三紀に、北海道の東と西の部分が衝突して、日高変成帯をつくったとする考え方が有力である。根室帯はその衝突してきた島弧の一部である。)と神居古譚変成帯をつくった。
衝突は更に進み、これら変成帯の地層を褶曲・隆起させ、日高山脈が形成された。1.500年前のことで、1.000年前には北海道の原形が完成した。
渡島半島の付け根にあたる地域は、火山の活動が大きく関わって形成された。羊蹄山の北と東には第三期にできた古い火山が多い。手稲山、無意根山、喜茂別岳、朝里岳、余市岳などである。
積丹半島の奇岩は海底火山の中身を見せている。一方、支笏・洞爺を中心とする南部に多いのは第四期後半に生まれた新しい火山であり、イワオヌブリ、昭和新山、有珠山、樽前山などは今も活動が活発である。
支笏カルデラでは、2万年前頃から恵庭岳、1万年前頃からは樽前山が生まれてた。17世紀半ば、火山活動の活発な時期で、駒ヶ岳、有珠山、樽前山の相次ぐ噴火はアイヌの人々に食料難をもたらしたらしい。
チャシ アイヌの人々によってつくられた砦状(とりでじょう)の遺構。柵(さく)、柵囲いを意味するアイヌ語を語源とする。北海道全域、千島列島、サハリンなどに広く分布し、道内では現在500カ所以上が確認されている。→ 城
海、湖沼、河川などに面した急峻で、見晴らしのよい丘陵の頂部や先端部を深さ2〜3mの壕(ごう)でくぎったり、土塁でかこんできずいている。規模は100〜1000m2のものが多い。チャシがきずかれた年代は、遺跡から出土する駒ヶ岳、有珠山、樽前山(たるまえさん)、雌阿寒岳などの火山灰の降灰年代や、近世の文献、外国人の探検記の記録などから、16〜18世紀ごろとされる。しかし、もう少し古いとの説もあり、起源や初現年代についてはいまだ不明な点が多い。
発掘調査では、壕や柵列跡、掘立柱建物、橋状遺構や、近世の陶磁器や鉄製品、内耳土器(ないじどき)、漆器などの遺物が発見されることが多い。砦としての機能だけではなく、ほかに漁労や狩猟の見張り場、儀式や談判の場、英雄の居館とする説もある。
チャシは、北海道東部の根室、釧路、日高、十勝に多く分布し、海岸部にはとくに大規模なものが集中する傾向がある。これを1669年(寛文9)のシャクシャインの戦と関連づける見方がある。チャシは本来、さまざまな機能をもっていたが、アイヌと松前藩との緊張関係が生じるにつれ、砦としての機能が強化され、発展していったものと考えられている。
北海道の文化―2
現在北海道で確認されている最も古いヒトの遺跡は4万年から10万年ほど前の旧人段階のものとされている。しかし、50万年前頃にはヒトが居住できるような自然的背景は十分備わっており、原人段階の遺跡がやがて発見される可能性は極めて高いとされる。
2万5千年前以降の新人段階の遺跡は数多く知られている。当時は最後の氷期にあたる。海水面の低下により出現した陸橋を渡って、北方の動物群は寒さを逃れて北海道や本州にやってきた。例えばナウマン象やナキウサギ。又、それらを食料としていた新人も移動してきた。大陸やサハリン、北海道の間で移動が盛んに行われていた。
(「北限の古代史―1」 「北限の古代史―2」 「北限の古代史―3」)
1万年前を石刃鏃文化
4千年前をストーンサークル
3千年前を晩期・呪術的精神文化
2千年前を続縄文時代 石器・鉄器の併用 恵山文化
6、7世紀から擦文時代 土師器文化 かまどつき住居
オホーツク文化
アイヌ時代
日本では1万2千年前に土器使用が開始され、土器が一般化した1万年前頃から、金属器の使用や稲作農耕が一般化する弥生時代までの約一万年間を縄文時代と呼ばれる。
北海道の縄文時代は、本州から土器が渡来して、8千年前頃から始まるが、東北地方と共通する点が多い。
北海道では、南北双方からの文化的影響が見られる地域であり、南西部と北西部とでは文化に地域差が見られる。その境界は石狩・苫小牧低地帯付近に設定される
早期の頃は、道南には東北地方と共通の尖底土器が多く、北東部では平底土器が発見されている。又、道東にシベリアから石刃鏃文化が流入したが、まもなく消え去った。
縄文前期から中期には縄文海進が起こった。千歳の美々貝塚は、そのあたりまで海になったことを示している。
縄文後期は縄文海進が終わり、現在よりも低温な寒冷期であった。その為人口が激減した。縄文後期の中頃以降、気候が回復し、遺跡の数も増える。その特徴的なものがストーンサークルである。
縄文後期後半になると、土塁を築く環状土?(周堤墓)の形式に推移する。晩期になると、東北地方の亀ヶ岡文化の影響を受け、呪術・儀式という精神文化の高揚が見られる。
続縄文時代
日本では水稲栽培の開始を持って弥生時代が始まるが、北海道には水稲耕作が波及せず(原始的な畑作農耕は、縄文時代に始まっていた)、金属器のみが伝来しただけで、縄文時代からの伝統的な文化が6世紀頃まで続く。これを本州の弥生文化と区別して続縄文時代という。
続縄文文化の前半のオンコロマナイ人(オンコロマナイ遺跡)とよばれる人たちが登場する。彼らは北海道アイヌに最も近い形質といわれている。
手宮洞窟(小樽市)、フゴッペ洞窟(余市市)、恵山貝塚(恵山町博物館・函館博物館)
擦文時代
本州の古墳時代を代表する土師器文化が北へ押し返してきた。土師器は石器を絶滅させ、「縄文」を駆逐して、擦文式土器(はけで擦ったような文様)の登場となった。
擦文時代になると、北海道と本州の関係は更に強まり、本州北部の文化とほぼ同じになる。竪穴住居はかまどの付いた隅丸方形になった。擦文人の集落は、河川の周りに立地していた。擦文文化を残した集団は、縄文人を祖先にもち、後世のアイヌ民族を主に構成した集団である。
常呂遺跡(常呂町、ところ遺跡の森、縄文から擦文までの時代ごとの復元住居が点在し、入り口にところ遺跡の館がある。古代テーマパークで、サロマ湖東急リゾートが裏手)、 標津遺跡群(標津町、ポー川史跡自然公園・標津町歴史民族博物館の屋外展示として復元家屋や開拓村があり、辺りは標湿原で湿原奥深くまで史跡を巡る遊歩道が整備され、道内最大級の史跡公園である)
オサムロ台地竪穴群(紋別市・オサムロ原生花園から国道を挟んでオサムロ遺跡公園があり、住居が復元) 十勝太遺跡群、十勝オコッペ遺跡(道央・浦幌町・浦幌浪漫村は森林公園で、十勝太遺跡をはじめ町内の遺跡で発見された縄文時代から擦文時代までの住居を復元) 十勝ホロカヤントー竪穴群
オホーツク文化
5世紀頃になると、北方民族がサハリンから移住し、オホーツク海岸から千島列島にまで居住地域を広げた。この文化はオホーツク文化と呼ばれ、竪穴住居は大型の六角形もしくわ五角形で、オホーツク式土器を用いた。この文化は12世紀頃までに擦文文化に吸収された。この文化をトビニタイ文化という。
最寄貝塚(網走市・登呂遺跡に匹敵する豊富な内容。モヨロ貝塚館)
以上のように、縄文時代以降は、北海道の人類が受けた影響は、北方よりも、本州からの方が強かった。津軽海峡が、文化面での境界線になったことはなかったのである。