津軽海峡をまたいでいた土器と文化圏

 土器は、ひとつひとつが識別可能な個性を持っている。それと同時に、ある時期に、ある一定の地域の土器は、胎土・焼成温度・形・文様などに共通性があり、まとまりを形成している。その共通性を「様式」という。小林達男氏によると、約一万年続いた縄文時代に、約70の土器様式が現れては消えていった。

 土器様式の背後には、その土器群を製作・使用した縄文人集団の存在が想定できる。縄文土器の文様に特別な観念を表現したとみられる「物語性文様」が存在することを指摘した小林教授は、様式を支持する集団は、同じ観念、イデオロギー、ひいてはコスモロジーを共有する集団であり、「一つの部族であった、といえるかもしれない」と見ている。

 三内丸山遺跡で出土している土器は、「円筒土器」と呼ばれる様式である。詳しく言うと、縄文時代前期のものを「円筒下層式」、中期のものを「円筒上層式」と区別される。遺跡の中で新旧の遺構・遺物が重なっている場合、古い時代のものは下層、新しいものは上層から出土することからの命名である。

 円筒土器は、上図で示すように、北は苫小牧―千歳―札幌―小樽を結ぶ石狩低地帯まで、南は秋田―田沢湖―盛岡―宮古を結ぶラインまで分布している。

 津軽海峡には、哺乳動物の重要な境界線であるプランキストン線が通っていて、縄文人の狩猟の対象となった動物の分布に違いがある。北海道にはイノシシ、カモシカは生息せず、本州にいないエゾシカ、ヒグマなど北方系の動物がいる。イノシシやヒグマには渡れなかった津軽海峡は、人間の交通には障害とならず、逆に、海峡をまたいだ両岸に、同じ土器様式を分布させる回廊となっていたのである。

 前期中頃から中期にかけての日本列島では、図のように、九つの地域文化が成立していた。渡辺 誠・名古屋大学教授は、こうした地域文化は、西日本の照葉樹林対、東日本の落葉広葉樹林帯、北海道北・東部の針葉樹林帯という森林帯の違いや、寒流・暖流をはじめとして複雑な地域性を示す水域環境など、色々な環境条件に適応した縄文人の生業活動の組み合わせの上に成立したとみている。

 地域文化圏に、土器様式とそれを支持した人間集団の関係を重ねれば、或いは縄文時代の日本列島には複数の部族が割拠していた可能性もありうるだろう。

 道北・道東地域には北筒式土器が分布していた。これは「北海道式円筒土器」の略で、円筒土器の影響下に生まれた様式だが、特有の技法で製作された石刀鏃をもつ文化が分布していた。

 この文化は、それを担った人間集団を含めて、シベリア・アムール川流域・沿海州の北東アジアに起源をもっていることは疑いない。

 後期晩期になると、地域文化圏は次第に統合されてゆき、東日本は亀ヶ岡式土器を持った文化、西日本は突帯文式土器を持った文化と二分される。ただし、列島南北端の南島地域と北海道北・東部の独自性は大きい。

 そして、東日本を覆った亀ヶ岡文化の中心は、前期・中期に円筒土器が分布していた北の縄文世界だったのであろう。

   

   

   


三内丸山遺跡と北の縄文世界

 アサヒグラフ(別冊)1997年・朝日新聞社

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