北の豊饒・祈りのかたち

 「第二の道具」と縄文人の精神世界

 円筒土器文化圏内に分布がほぼ限られる遺物に、青竜刀形石器がある。形が中国の青竜刀に似ていることから江戸時代に付けられた名称だが、青竜刀を模したものでは全くない。青竜刀でいえば刀に当たる部分に、浅い溝が彫られているものが多い。

 刀剣のたぐいでないことは明らかだが、柄を握って振り回すのに適していそうな形と、鮭鱒が大量に遡上する地域に分布することから、梁にかかった鮭鱒を撲殺する漁労具ではないかなどと想像したいところだが、何らかの使用痕をもつものは皆無。極めてもろいシルト岩製のものであり、とうてい実用に耐えるものではない。用途不明の遺物である。

 縄文文化には、青竜刀形石器と同じように、機能、用途が判然としない遺物が沢山ある。その典型が土偶で、他に、岩偶、土面、土版、石版、三角形土製品、石剣、石刀、さらに、動物形土製品やキノコ形土製品もこの仲間だ。こうした機能・用途が不明な道具を、小林達雄氏は、「第二の道具」と呼んでいる。

 「第一の道具」とは、石鏃や釣り針など食料を獲得するための労働生産用具、食料を調理するための土器・石皿などの厨房具、そして道具を作るための砥石や石キリなどの工具類である。これらは、世界の採集民社会に普遍的に見られる汎人類的な道具となる。

 これに対して、第二の道具は、時代的文化的一回性が強く、それを生んだ文化の個性、とりわけ精神的な世界を表現しているといえる。

 遺構に伴って青竜刀形石器が発見された貴重な例に、北海道松前町・寺町貝塚の竪穴住居から出土したものがある。住居の竪穴の南東寄りの壁に小さな張り出し部があり、そこから小型の石棒や礫とともに出土したが、両面にタール状の物質が付着していた。

 この出土例から野村祟氏は、壁の掘り込みは祭祀のための祭壇であり、獣脂などの入った器に青竜刀形石器をひたすといった儀礼が行われたのではないかと想像している。

 第二の道具は、このように、儀礼・呪術に関わった儀器・呪術具として使われたのである。

 縄文時代のなかで第二の道具が発達するのは、前期末に土偶が登場して以後のこと。そして、中期以降、採集民の社会としては世界的に異例とされるほど大規模・華麗な縄文文化が花開いてゆくにつれて、様々な第二の道具が登場し、発達していく。

 小林教授にとると、縄文から弥生への転換に際して、第一の道具は継承されたものが少なくはなかったのに対し、第二の道具で引き継がれたものは殆ど無かったという。第二の道具には、縄文文化が縄文文化であった本質が秘められているといえそうだ。

 そして、「縄文の本場」にふさわしく、北の縄文世界における第二の道具は、多種多様で、かつ出土量も多いのである。

三内丸山遺跡と北の縄文世界

 アサヒグラフ(別冊)1997年・朝日新聞社

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